あはははは

いざ、参らん!

内刳り

タイトルは
うちくり
と読む。

ポエムに説得力があることは
ほぼ無い。
なぜなら具体的ではないから。
人はたとえそれが差別的であろうと
過度に偏った情報であろうと
具体例を必要とする。
具体例から、想像する。
それでようやく、何かを考える気になる。
まだ脳の外にある新しい何かを。

ここに
芳雄という35歳のメガネ男子がいる。
この男は今、私の横で
全裸で寝ている。
メガネをかけたまま、寝ている。
右手には充電器につながれた
スマホを持ったままである。

この男が少し前、
私の腹の上で果てた時、
私はこの男を憎いと思うと同時に、
さらに少し前、
まだ互いに息を荒らげることもなく
別々の椅子で同じテレビを眺めていた時に
発した言葉を
思い出していた。

女は矛盾を同時に合わせ持つ。
もしオレが女なら
そんな精神破綻に耐えられないだろう。
だけど
そんな女を求めずにはいられない
だからオレもまた矛盾だ。
あるときこう感じても
ふと気を抜くと
もうそんな矛盾はどうでもよくなって
ただ女を求めている。
だけど頭では
オレは矛盾に耐えられないはずだと
思っている。
これも矛盾だ。
どこにも一貫性がない。
愛した瞬間に呪いたくなる。
これでどうやって生きられる?

このとき私は
この面倒臭い言葉を
ただメンドクサイとだけ思い、
テレビに映るドキュメンタリ番組に
集中しているふりを貫いた。

ーーー

矛盾はたしかに存在している
あらゆる場面でそれは顔を出す。

牛肉を食べる時
脳に衝撃を与えられ気絶した牛の
首を切り血を抜き絶命させ
皮を剥ぎ肉を削ぎとる様子を
思い浮かべれば
それは矛盾である。
死と生の喧嘩である。
また
スクランブルエッグを食べる時
タマゴを産むニワトリは最早
自らタマゴを抱こうとする能力さえ
失っていて、
ヒトによる保温なしでは
子孫を繁栄させることができない
という事実を思い浮かべれば
これも矛盾である。
品種改良の功罪である。
また
朝、東の空から太陽が登り
夕方、西の空に沈むのを見る時、
太陽が動いているように見えるのに
それは正しくないのだ、
本当は地球が回っているのだと
思えるなら、
これも矛盾である。
経験や感覚という真実の、
真実らしき何かによる否定である。

矛盾の具体例は無限である。

身を粉にする日々の労働も、
経済的必要という名の矛盾である。
最早生きるために働く人は少なく、
働くために生きている。
もっと言えば
働く頭数を十分に保つために
生かされている。
なぜなら日本では
食料は捨てるほど余っており
衣類も陳列棚がうまるほど余っており
住居も人口減少で余っているからである。
つまり衣食住が足りている。
衣食住は足りているが、
経済合理性を満たすためには
いくら働いても衣食住は足りない。

経済合理性の中には、
社会的弱者の救済や、
不測の事態への備蓄、
つまり保険が含まれているが、
いずれも矛盾である。

なぜなら
私が1日ベッドから動かなくても
太陽は窓の外を動くからであり、
それを全裸の男に
「いや、太陽は動いてない」
といわれても
クソ喰らえ
としか思えないからである。

つまり
一貫性などどこにもないのである。
男への愛は
男への憎しみが無ければ芽生えないが、
その両者の間を行き来することでしか
生存することさえ叶わないのである。

憎める男しか愛することは出来ない。
そしてこれは
世界の認識の出発点である。
愛憎共に抱き込んで初めて、
生存がはじまる。

男の気を引きたい女が
男を必ず拒否するのは
男にとっては矛盾だろうが、
女にとっては慣れた真実である。

一線

あだ名はゴミだ。

でもいじめにあったことはない。少なくとも自分ではそう断言できる。

時には、友人が僕をゴミと呼んでいるところを先生に聞かれてしまい注意される、という事が発生するが、それすら友人と僕の間では数日間のネタになる。

時には同じクラスの女子が注意してくることもあるが、その度に僕はその女子の想像力の貧しさを哀れだと思う。彼女らはゴミは汚いものであるという考えに支配されて、友情の本質が見えていないのだ。

僕は友人の前でよく、大きなプラスチックのゴミ箱にお尻から入るというネタ振りをする。すると友人はうまいタイミングで
「見ろよ、ゴミが自分からゴミ箱に入っていったぜ。なんて賢いゴミだ」と受ける。