犬
犬が座っている。
柴犬ともう少し大型の西洋犬の雑種のようだ。
赤っぽい首輪に黒のリードがついている。
リードは柿の木の主幹にくくりつけられている。
柿の木には人の手サイズの葉が茂っている。
葉の隙間には青い柿の実が複数なっている。
犬のそば、柿の木の根元には、摘果されたあるいは自然落果した青い実が落ちている。
落下した実の裏側にはアリやダンゴムシが群がっているが、それは誰にも見えない。
柿の木から10メートルほど離れた芝生に、若い男女が並んで寝そべっている。
犬はそちらを見るともなくじっと見ている。
男は芝生に直に、女は青と黄色の縞のビニルシートを1枚敷いている。
男は直に太陽光を浴び、女は黒と銀の日傘で身を隠している。
2人はさっきまで自宅のテレビでやっていた番組の内容から枝葉を伸ばし、いいかげんに会話している。
その2人に無言で近づく男がいる。
見渡せる限りでは、その2人と、その男以外、誰もいない。
男は犬の柿の木から、2人とは反対側に10メートル離れたところで立ち止まった。
男の右手には剥き出しの出刃包丁が握られている。
男は左腕に抱えていた発泡スチロールを芝生に下ろし、中から冷凍の鯵を1尾取り出した。
男は2人を目掛けて走り出した。
5メートル近付いたところで、犬が物音に振り返った。
男はそこで初めて犬に気づいた。
殺す幸せ
洋子は息を切らして追いかけていた。自分が追いかけていることに無自覚なまま、白っぽい蝶を追いかけていた。
洋子は追いかけると同時に逃げていた。自意識を苛む、苦い失敗の記憶の数々から、逃げていた。本人は逃げていることにも無自覚で、ただ蝶を追いかけるため、全身を躍動させることに集中していた。
休日の森林公園である。虫好きの人間が走る光景は特に変ではない。ただし洋子はスーツにパンプス、肩にはサイドバッグという出で立ちである。
洋子は無類の蝶好きかというと、そうではない。むしろ虫は普段避けるし、家の中にいればすぐに殺す人物である。今回はただ追いかけなければ、いてもたってもいられないようであったから、追いかけたのである。
蝶を追いかける先に目的はない。捕まえてどうしようと考えていないことはもちろんのこと、蝶を追いかけ終えた後、周囲の人間との間に流れるであろう不審な空気への心配さえしていない。ただ夢中に、自分を殺すことに成功したのである。